昭和49年11月02日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 信心をする。信心を頂いておりますと、神様の特別なお働きがある。それを金光教では、お取次ぎを頂いて、信心の稽古をさせて貰う。そのお取次ぎの働きが、様々な角度から起こってくる。言い換えますと金光大神の、いわば教祖様の御神徳によって、私共がその働きの中に、生活とかが出来るようになる。金光大神お取次ぎの働きの中、それをもっと言うと、合楽に御神縁を頂いておる方たちが、親先生の祈りの圏内というふうにここでは申しますですね。
 私が日々皆さんのお取次ぎをさせて頂いておる。そのお取次ぎをさせて頂いておる、その祈りの圏内の中に、金光大神のお取次ぎの働きが、ありありと始まってくる。又はありありと分からなくても、何とはなしにそれが感じられて来る様になる。それは全然気付かない。全然分からない中にもそういう働きがあっておるのですから、段々日にちが経つにしたがって、本当に気が付かなかったけれども、あの事もおかげであったなぁ。この事もやっぱり神様の御働きの中にあったんだなと分かるようになってくる。
 そういうおかげがです。頂けて来る様になりますと、本当の信者じゃと。真実の信者じゃというう風に言ってあります。だから私共がどうでも、本当の信者を目指さなければいけません。本当の信者を心掛けなければいけません。そこにあれもおかげであったこれもおかげであったと分からせて頂く。そこに信心をさせて頂く者の幸せこの上も無い、有難い事に成って来る訳です同時にです。
 あれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様に成るという風に言っておられますけれども。あれもおかげであった、是もおかげであったと分からない。言うならば何がなにやら分からないけれども、只々有難いと言う事に成って来るのです。ここの所に成って来ると、私は神様の御働きと言うかおかげというか、それがいうならば氷山の一角に、氷山の一角がこう出ておりますけれども、その根の所は殆どは海中にある。だから私共が目に見えておる、感じておる所のものは氷山の一角である。
 けれども何とはなしに有り難い。あれは西行法師の詩ですかね。日本中を行脚して回られる。たまたま伊勢神宮を拝まれた時の、感慨と申しますか。その詩を「詠み人のまつりあるかは知らねども、ただ有り難さに涙こぼれる。」と私は本当の信心の、遊興というのはそれだと思うんです。何か分からないのです。分からないけれどそれが有り難さに涙がこぼれてくる程しのものなのです。
 私はそういう有難さというものがです目には見えない。言うなら氷山の一角だけではない、その根の分までも分からないけれども、それが有難いと分かってくる信心生活。そういうおかげを頂きたいと思う。お風呂へ入らせて頂いておっても便所の中に入らせて頂いておってもただ有難い。私もそういう有難いに浸らせて頂く事が、たまたま御座います。どこからその有難いというのが湧いてくるか自分にも分からんのです。
 ここへ日々奉仕をさせて頂いて、おかげを頂いておると、とにかく只有難いのです。もう嗚咽が出てくるほど有難うなってくるのです。もう本当ですだからもう信心は、ここからね理屈じゃないのです。信心すれば目に見えるおかげよりとこう仰る。信心をさせて頂いておると、いつの間にか何とはなしにです、有難うなってくるのです。もうそこにはね、問題が問題でなくなってくるです。
 難儀が難儀でなくなってくるんです。もう暑いもなからなければ、寒いも無い心の状態が開けてくるのです。お願いをしてこうおかげを頂いた。こんな奇跡が現れたと言う様なおかげは、それは氷山の一角です。信心をさせて頂いておると、なるほど、体験が生まれてまいります。あん時にはあんなおかげを頂いた。あん時にはこうだったと。だからそういうおかげは勿論ですけれども、そういうおかげを頂き頂き、信心の稽古をさせて頂いておるとです。氷山の一角ではないその根のところのおかげ。
 それを海中に入って行って分かるというのじゃない。そういう理屈のものではない。只もう何とはなしに有難うなってくるのです。その何とはなしに有難うなってくると言う事がです。私は一切のおかげを受け止めれる、おかげの受け物になるのだと思います。ですから昨夜のお月次祭にも、皆さん聞いて頂いた様に。願い以上思い以上それこそ、夢にも思わなかったおかげの展開が始まるのです。
 只願った事が成就した。自分の思う様になった。これは本当のおかげではない。本当のおかげというのは、私共が何とはなしに有難うなって行って、神様のおかげの全てを、何とはなしの有難さでお礼が言えれるようになる。只有難さに涙がこぼれて来る様になる。と言う事は、もうどれだけあるか分からないおかげを、何とはなしに一つの霊感とでも申しましょうか、その感で受け止めておる状態なのです。もうここは理屈じゃお話出来ないのです。皆さんも体験なさらなければ仕方がない所です。
 そこにね私は神様が大満足を感じて下さるのじゃないかと思います。おかげをやっておっても、只腑が良かったおかげを頂いても、あれは偶然だったと言うような状態であるならば、下さった神様も勢がなかろうと思うですね。信心をしておれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげのほうが多いと、そういう御働きがです。金光大神の御取次ぎによって始まる。そういうおかげをです。はっきりと言う事じゃない。
 そういうおかげを、何とはなしではあるけれども、感じ取らせて頂けれる。これは春秋の大祭の後の菊栄会が二十日ですが、二十日の日を菊栄会の方達が全員で、私を大祭の慰労と言う様な意味で、信心実習を必ず致します。もうそん時には金のかかり放題、と言う様な感じでですね、その会が何時も春秋今年も二十日におかげを頂きました。私が焼き物が好きですから、必ずこの窯元めぐりをやるんですあっちこっち。
 星野の窯元へ参りました。もう只々驚くばかりで、この位ばっかりのぐい呑み一つが二千円。しかたぁもない感じです。もう私だん五百円でんとっても買いはきらん。だから皆さんが言ってました。千円に負けなさいて絶対負けません。でもこげなもんば千円で売るなら、そうにゃ儲かろごたるけれどもそこにです、矢張り陶工の良心と言った様なものがね。まぁ伺われるわけですけれども。その代わり買うて下さいとも、その押し売りするような雰囲気もありません。もう只々自分のその焼き上げて行く、その陶器類がそれでもう自分自身も楽しんでおる。
 だからそれを下さいと言うても、惜し気が付く感じですね。そらぁ私が若い時に作ったじゃから上げられません、そういう風に言うんですよ。まだ自分が弟子に行ったばっかりの時に作ったっですから、そらもう上げられません。大体ねこういう沢山の陶器を並べてあるのに、それはもう茶碗一つでも三万円より安いのはないです。もうそれが本当に仕方もないですまぁ感じでは。本当にただでん要らんち言うごたる感じのでも、やっぱり随分高いです。
 是はある窯元へ行った時でしたけれど、折角あの時は高橋さんのお父さんの紹介で参っておりましたから、折角こうやって見せて頂いて、えらいサービスして貰いましたから、何か一つ位買わにゃ。だから私が好きなものが是が良いなというのを、皆んなが買う事にしてるんです。菊栄会の方たちが。それをお土産と言う事に何時もなるのです。それで私も何か一つぐらい買わなきゃいけないと思って、値段を聞いたんです。
 こんなこの位ばっかりの水鉢でした。それは残念ながらもう売約済みですとこう言う。大体これは、値段は幾らぐらいするもんですかち言うたら、二十万円。まぁ良かった本当売約済みで。聞いた手前また紹介して頂いておる方の手前、それこそそれ位買わなきゃいけないとこでした。まぁそれで這々(ほうほう)の体で、いわばですまた参りますと言うて、帰らせて頂いた様な事が御座いましたがです。
 その時に誰かが言ってました。大体こういう値段はどこから出てくるんですかと言うわけです。そしたらねまあ一つの霊感ですと申しました。自分の作った値段がこれ幾らと言うて出て来る訳ではない訳です。その十万とか二十万とかと茶碗一つが何万もすると言う様な、その符丁は誰がつけるかと言うと私の霊感ですと。もう目に見えない世界が、はっきり値段付けられておるわけです。
 しかもそれが自分の霊感が間違いはない証拠に、いやぁこれは良いと言うて、それをみんなが買うて行くわけですよ。それにはねやっぱそこまでには、陶芸家としての苦心とか、様々な体験を積んで行く事で、来たに違いはありません。信心も同じ事です。日々信心の稽古をさせて頂いて、これはね例えば神様からお知らせを頂いたとか、御神願に頂いたとかとそう言う事とはまた別なんです。
 昨日も久留米の市長さんが、控えの間にお願いに見えた時に、私は見えられるほんの何分か前にこんな事を、もうそれこそ鉛筆で走り書きに書いとったんです。そこへ丁度近見市長が参って見えました。今私がこう言う事を頂いておったから、是はあなたが頂かんならん御理解でしょうと言うて話してあげました。そしたら先生是を下さいと言われるんです。是はまぁなんじゃいかんじゃい分からんごつ書いとるけん、別に書いてあげましょうと言うて上げたわけでしたけれどね。
 「政治家が自己の名誉のために、商人が自己の利益のために、先生が自分の食のために、それは全てが的はずれである」というのです。そう言う事では人間の幸せには繋がらない。人間の幸福のために、奉仕するのが本当なんだ。人間の幸福のためにここで、私がね例えば、大坪一家の生活のために、もしここに座っておったならです。とてもどこから湧いてくるか分からない、それこそ嗚咽が出るほどしの感激は与えられないと思うです。ただ人が助かる事さえ出来れば良いのです。
 ほんとに世界に本当の真の平和がもたらされる、そういうおかげを頂きたいと言う様な一念がです。ここの奉仕の姿になってくる時に、是は目には見えません。形には分からないのですけれども、どこから涌いてくるか分からない有難さを許されるのです。その有難いというその心がです。人間の幸福の条件である、全てのおかげをキャッチしていくのです。これなんかいうならばもう何と申しましょうか。
 近見市長が参ってきよるから、これば書いとけと言う様なお知らせを、例えば頂くような事もないじゃないです。ありますです。それこそお腹の中の赤ちゃんの名前を頂に来ると、それが男か女かの名前を頂いたら、女の名前を頂いたら矢張り、女の子が誕生する。男の名前を頂いたら男が誕生する。そう言う事もあるのですから。けれどもそれはね、大したことはないです。不思議な事の様ですけれども。
 神様はお知らせ下さるのですからそれを伝える。それは大した不思議なことはないのですけれどもです。ただ私の心の全ての動きの中にです。神様の働きが始まる。それを一つの霊感とでも言うわけでしょうか。ある教会の御信者さん方が、二十何名でここにご参拝になりました。丁度お昼時でしたから、お弁当をここで開かしてくれと言います。共励殿でお弁当をあげた。そん時に丁度食堂でおそばが出来ておった。
 それで皆さんにおそばをちょっと差し上げた。そしたら引率して見えとられる先生が仰るのに、おいみんな信者さん方に言われるんです。これが御神徳というもんだぞと。俺達が、この教会に二十何名の者が来よるという事が、ちゃんと神様からお知らせを頂いておられたからこそこのそばが、立ち所に間に合うたじゃないか。これが御神徳というもんじゃ。私はそばにおってからそげなこっじゃありませんと言おうごたったけれどもね。お知らせ頂いてからではないです。
 ただ何かあの時には、職人さんたちが入っておってから、お昼に出すために作っておったんです。それがたまたま間に合うたと言う事ですけれども、そう言う事は私の身辺には、いつも起こっておるです。これは私が目に見えないおかげを、段々何とはなしにキャッチしておる。目に見えないおかげを、あれもおかげであった、是もおかげであったと分かるようになるだけではなくてです。
 目に見えない所のおかげの全てをです。有難いという心で感じとっていきよるからだと、私は思うです。昨日近見市長と私のここでの問答もやっぱそうです。あなたが来る事をお知らせ頂いておったからというのじゃなくてです。たまたま、政治家の市長さんに対する所の、地位や名誉のためにあなたが、動かれると言う様な事であっては、あなたも久留米市民も、本当の助かりにはなりませんよと。
 本当に久留米市民の幸福のことのために、自分はお使い回しを頂いておるんだと言う事にならなければならん。それを御神米に、こう書いて差し上げましたから、押し頂いて、今日は良い教えを頂いたと言うて帰られました。そう言う様な事もです。これはだんだん目に見えるおかげより、目に見えないおかげのところを、理屈じゃない。けれどもそれこそどこから湧いてくるか分からない有り難さでキャッチしたものが、そういう形になって現れてくるのです。
 そこに人が助かって行く所のきっかけが、また生まれてくるのです。そこでです私は思いますのに、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様になると、こう言っとられます。そこでそこに困った問題が起きて来たに致しましてもです。これも神様のご都合に違いはないと頂いた時に、おかげとして頂いた事になるのです。あれもと言う事は過去のことでしょう。もう信心させて頂いておるとです。どういうそれは困った事であろうが、難儀な事であろうがです。それが全部生きてくるです。
 信心はだから過去の全てを生かしていく道だと言うてもいいくらいです。一生涯の中にです、本当にあの時分にああいう難儀な目に合わなかった、例えていうならです。昨日矢部の方たちがこの前の月次祭から、この前六名参り今度は八名参って来ました。そして本当に体験を頂いておかげを頂いてるんです。毎日胃が痛む。お願いをして帰った、御神米を頂いて帰った。そしたらあんまり痛むから仕事をやめて家に帰って、頂いていっとる御神米を頂いたらそのまま眠ってしまった。
 目が覚めた時には痛いのが無くなって、それ以来もう十日余りになるけれどもです、全然痛まないち言うんです。そういうおかげを頂いております。あれもおかげであったこれもおかげであったと。あれという言うなら過去の全てがです生きてくる。どんなに忌まわしい事柄であっても、どんなにそれが難儀な問題であっても。矢部のそれこそ山奥の奥の部落の方たちですけれども、一人の信者の家がこの頃から丸焼けになった。その丸焼けになった具合が素晴らしい。
 最近では隣近所の方たちがね、もうそこに来てから羨ましがられるち言うが、それも貰うたっじゃろたい、これもやっぱ今度貰うたっじゃろたいと言うて、なんか羨ましゅうして応えんようにして言われる。けれども人が羨ましがられる位におかげを頂いておると言う事を、有難いと思いますと言うのです。そういうおかげを頂いた後にです。とにかくあんた達が、この頃あそこの主人の、後藤さんと言いますけれども、同じ職場におる人達が、十三日の日だけは、くるっとおらんごつなるち言う。
 どこに良きよるじゃろかと思うたら、久留米のほうに行きよるぎなという話を聞いとったが、十三日会の日だけはお参りをするから、黙って仕事を休むわけなんです。ただここにお参りしよったげなと言う事が分かってです。もうとにかく信心しよったから、こういう例えばおかげになってきたと言う事が話題になり、私も連れて行ってくれ、私も連れて行ってくれと言うて、集まってくるようになり。雨の降る日はみんな十人も十何人もの人達が、後藤さんの家に集まってくる。
 そして信心の話を聞かせてくれと、こう言うわけです。例えば本当に火事で丸焼けになったというなら、人生の中にそれこそ最高な不幸なことに、ほんにあん時火事で焼けとらなかったらねと、後で思うような事があるかも知れませんけれども、信心を頂いておりますとです。その火事が生きてくるです。丸焼けになったことが。あの時のおかげでというふうに必ず生きてくるです。これは火事だけのことじゃありません。一切の全てがです。一生涯の例えばここに、五十という年配の人がおってです。
 信心を始めるようになると、過去五十年間の全てが生きてくるです。そういう私はおかげを頂くために現在、踏んまえておるところの難儀、今持っておる所の問題もです。矢張りこれも神様のご都合に違いはないと頂かせて頂く所の信心。せめてそこの所位は、早く分からなければいけません。今病気をしておる。神様のご都合この病気がなからなかったら、とても合楽に御神縁を頂く様な事はなかった。してみるとこの病気のおかげで信心が出来ておるのですから、御礼が言えれる心が生まれてくる。
 そういう心におかげがあるのです。あれもおかげであり、これもおかげであると言う事は、全てが神様のご都合であり、全てが神様の神愛であり、おかげであると分からせて頂くところまでは、ひとつ皆さんが、信心が一つ進まなきゃ行けません。あれもおかげ、これもおかげと思わせて頂いておる。そういう信心が日常生活の上に現されてくる、出来てくるようになりますとです。今日私が申しますあれもおかげ、これもおかげだけでは、目に見えておる分野だけではない。目に見えない分野。
 いうならば氷山の根の所、ここの所のおかげが分かるようになる。それは何とはなしにである、目に見えないのですから。けどもそれがです。ただ有難さに涙こぼれるというような心の状態で、おかげの全てをキャッチすることが出来る。そこに神様も大満足なら、私共もまた、大満足のおかげが受けられる。信心も出来んのにそれこそ、夢にも思わなかったようなおかげが展開してくる。それを私は本当の神様が願うて下さるおかげであると思います。
   どうぞ。